上泉伊勢守ドラマ
2016.11.17 感動の出会い 伊勢守と信玄
この日は前橋臨江閣の日本庭園を箕輪城の一郭に想定して、長野業政(田中健さん)が娘・正子(高島礼子さん)を、国峰城主の小幡政春(池田政典さん)に嫁がせようとする戦国武将の辛い心模様を撮影。すぐに安中市郡奉行役宅へ移動し、国峰城下を想定して、時代にほんろうされた幸少ない正子を中心とする人間模様が撮られました。派手な動きの多い合戦場面や太刀回りが代劇の見せ場とすれば、演技力が問われるこうした地味な場面は、物語を支える大切な軸といえるでしょう。
正子には娘も生まれ、夫である小幡政春とむつまじく暮らしています。しかし、戦国の世はささやかな幸せさえも継続させてくれません。武田の侵攻を受け妻子や領民のことを考えた末、小幡正春は武田へ寝返ることを決意、正子にそのことを打ち明け、お前は箕輪城へ帰れ、と告げます。感のいい正子は今までの父・業政との会話や小幡の何気ない動きの中に、こうしたことになるだろうと察しているので、毅然として小幡に付いていく決意を示します。
上野を守らなければならない業政の決意、武田の攻略にあえぐ小幡正春の...苦悩、自分に寄せる思いを知りながら小幡に嫁ぎ、さらに武田に寝返る小幡の妻としての正子の運命……。国峰城下の撮影は深い悲しみを秘めた正子の美しさが際立っていました(正子の出る場面撮影はこの日、夜、終了しました)。
伊勢守はこうした事柄をすべて心の中にしまい込んで、上野を守るため長野業政についてゆくのです。
2016.11.18 際立つ正子の美しさ
このドラマは上泉伊勢守が上洛するまでの前半生を描いています。陰流を創始した愛洲移香斎(勝野洋さん)との出会いと修行の日々、武田勢との攻防、仕えた長野業政、妻や正子との別れ…。戦いに明け暮れた半生の中にはいくつもの山場があます。この日撮影された武田信玄(原田龍二さん)との出会いの場面も、大きな山場の一つといえるでしょう。
台本は110ページあり、それを109のシーンに別けて撮影します。短いシーンはわずか1行ですから、その場面によって長さはまちまちです。この出会いの場面は約4ページに及ぶ長いもので、これを30カットに分割して撮影しました。それだけに伊勢守と信玄のやり取りは、見ていてものすごい迫力を感じました。
箕輪城の攻防で伊勢守の奮闘ぶりは武田勢によって信玄の元に、もたらされたことでしょう。武田家の記録を書き残した『甲陽軍鑑』には上泉伊勢守のことがかなり詳しく書かれています。箕輪落城と伊勢守のことについて『甲陽軍鑑品卅三 上泉伊勢兵法修行事』から少し長いけれども次に引用します。
「長野信濃守大剛の...武士といひ、地戦には千騎の侍を持候故、箕輪の城信玄公三十七歳の時より年々はたらき給ひ、四十三歳にて七年めに箕輪御手に入、是も三年以前辛酉の年信濃守病死して廿より内のせがれの代にも三年もち、今度落城にも信玄公の衆に手負・死人多し、此儀は長野信濃守家中の侍衆能武士ども成故、如此信濃守衆二百騎あまり召をかるる、中に上泉伊勢と申者も武士ほまれおほき侍なるが、此者信玄公へ御いとま申上候子細は、あひすかげの流と申兵法をならひ得て候間、此中よりそれがし仕出し、新陰流とたて兵法修行を仕り度候、奉公いたすにおいては信玄公へ注進申べく候、奉公にてはなく修行者に罷成候と申す故、御いとま被下也。」
要約すれば、長野業政の手腕をほめ、そのうち2百騎が信玄に召し抱えられましたが、「ほまれおほき侍」である伊勢守は「あいすかげの流」から新陰流を編み出し、その修行のため、いとまごいを申し出てゆるされた、ということでしょう。
甲陽軍鑑には信玄から「信」の一文字をとって「秀綱」から「信綱」に改名したことは触れられていませんが、撮影ではここが大きな見せ場になります。修行を申し出る伊勢守に対し信玄は、修行とは名ばかりで実際は自分の命を狙う機会をうかがうのであろう、と伊勢守の言葉を一切信用しません。それどころか伊勢守の首をはねようと太刀を抜き放つのです……。この撮影場面では、二人のやり取りに見とれた金監督が「カーット」を忘れるほどでした。
信玄役の原田龍二さんは「信玄が何流を使っていたのか、どのような太刀を使うのか知りたいものですね。私も合戦に出たかったな」と、太刀回りに興味を示し、箕輪城の合戦に出番がなかったことをちょっと残念そうに話していました。
2016.11.16 昏くなっても撮影は続きました
2016.11.15 赤城山頂別れの場面
2016.11.13 箕輪城二の丸で攻防戦
13日午前は場所を大胡城址に変えて、上泉城を奪還する場面。午後はまた箕輪城へ戻り上泉城奪還の続きを撮影し、その後、夜10時過ぎまでかけて河越夜戦を撮りました。上泉城の奪還、武田との合戦、河越夜戦、短期間にさまざまな戦いのシーンを撮るので、エキトラの人たちは今、何の場面を撮影しているのか分からない人もいたのではないでしょうか。
大胡城址の撮影では、神後と文五郎が上泉城に潜り込み城門の閂を開けると、満を持した伊勢守が入城します。地元、大胡町のエキストラも鬨の声を張り上げながら役者に交じって奮戦。伊勢守が入城すると、その後から長尾景虎(山田純大さん)が馬上から「伊勢守殿に続けー」と号令を掛け、「まさに、上州一本槍」と感嘆の声をあげます。
あわただしく昼食を済ませ箕輪城址へ移動。日が沈むといよいよ夜戦の撮影です。普通、夜襲は月のない夜に行われると聞いていましたが、この日は満月。明日14日がスーパームーンなので見事な月が広い二の丸を照らしています。撮影にはかえって好都合かもしれません。
場面は数千の兵がこもる...河越城からの夜襲を受け、約8万5千に膨れあがった関東管領・上杉憲正軍の陣営が引き下がるところです。二の丸には一昨日、夜中までかかって張られた「倉賀野」「上泉」「長野」の三つの陣幕が監督の「ヨーイ スタート」の声を待っています。
二の丸の林の奥から松明を掲げた北条の精鋭が倉賀野陣へ一気になだれ込み陣幕を中央突破。陣を照らしていたかがり火はけり倒され、雑魚寝をしていた兵たちは次々と倒される情景は凄味さえ感じます。夜の箕輪城に永禄年間の戦いがまさに再現されました。
このただならぬ気配を察した伊勢守は、素早く陣を引き裏手から辛くも長野業政(田中健さん)の陣まで逃げ延び、上杉憲正(岡田浩暉さん)に「撤退」という苦渋の選択を申し出ます。ぎりぎりの状況で覚悟を決めた伊勢守・業政と、対面に固執する憲正、迫真のやり取りも見逃せません。(写真は大胡城跡での撮影遠景)
2016.11.08 ミスは伝染する?
2016年11月8日の撮影は中之条町の富沢家住宅で行われました。富沢家は月夜野と中之条を結ぶ大道峠の中間にある山奥の家です。18世紀に建てられた大型の養蚕農家(間口13間、奥行き7間)で国指定重要文化財になっています。
富沢家では、迫る北条軍から上泉城を守るためにどうするか、上泉伊勢守を中心にした戦評定の場面が撮影されました。評定には文五郎(石黒英雄さん)と神後(菊田大輔さん)が登場しました。
上泉伊勢守が北条に城を明け渡す決心をする重大な場面ですが、本番終了間際になってエキストラの一人が急にせき込んでしまいました。残念ですが仕切り直しです。次はうまくいくだろうと思っていたら、村上さんがセリフを間違えてしまいました。その次もまた同じ場所を間違えてしまい、たった2文字ですが、撮り直しです。村上さんは自分の「家来」たちに「すみません」と誤っています。さらに、村上さんがうまくいったのに、今度は伊勢守の一番弟子・文五郎が間違えてしまいました。寒さをこらえトイレも我慢してその場にいる役者やスタッフは、少しでも早く監督の「OK」の声を聞きたいところですが結局、このシーンは次の5回目にOKとなりました。
あくびがうつるということは聞いたことがありますが、緊張の糸が切れると、こんなこともあるのだなと思いました。最初にせき込んだエキストラは腹回りが130センチもある大きな人です。撮影後、「座るのは腹が苦しくなるのでつらいんだよね。あのときは自分にあと10秒のがまんと言い聞かせて我慢したけど、どうにもだめだった」と、照れ臭そうに心境を話してくれました。
ところで、映画界の用語にいろいろありますが、「てっぺん」もその一つです。これは撮影や作業が午前零時を過ぎることを言うそうです。時計の文字盤の一番上にあるからそう呼ぶのでしょうか。8日早朝から撮影するためには、前日のうちに室内装飾を済ませておかなければなりません。7日の準備作業はまさにその「てっぺん」だったそうです。時代設定を考えて撮影場所を作る作業は「装飾」の酒井さんたちです。てっぺんの作業を終えた装飾の人たちは一度、高崎市内の宿舎に帰りますが、8日8時からの撮影開始1時間前には富沢家に来て、作業を済ませていたのには驚きました。
(写真は富沢家です)
2016.11.06 ドラマ撮影が始まります
上泉伊勢守のテレビドラマ撮影が2016年11月7日(月)から撮影が始まります。主役の上泉伊勢守は村上弘明さん。伊勢守に密かに思いを寄せる女性に高島礼子さんが出演、2016年11月21日(月)まで県内各地で撮影を行います。来年2月ごろをめどにBS朝日で放送予定です。これから日々の撮影の様子をなるべく新しい情報でお届けしたいと思います。